昭和56年04月27日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地は流行ることなし、流行ることなければ終わりもなし、天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」       

 二代金光様、四神様のみ教えに「大海のような信心をせよ」という御教えがあります。「竹の筒に水が溜まった様な信心ではボウフラ位なものしかわかん。大海の様な信心をすれば鯨が住もうが」と。大きなおかげを頂くためには大海のような信心をしなければならんというのです。いうならばこの御教えを聞きふるしておる程しに頂いた御理解であります。そして皆んなもその鯨の住む様な大きなおかげを頂きたいと思います。
 けれども大海の様な信心がどう言う様な信心をすれば鯨の住む様なおかげになるか。大きな信心、だ天下国家の事を願っているというだけでなくて、そういう大きな心というか、大きな信心という。今日今日のみ教えを頂いて「天地日月の心になる事肝要だ」と仰せられる。なら天地日月の心とはどういう信心なのか、それがどういう訳で大海の信心に通じるのかと言う事を説き明かしてあるのが、合楽理念だと思うですね。
 私共も今の四神様の御教えは、どれだけ頂いたか分かりません。成程それどころじゃない。心がこまいそれこそ竹の筒に水が溜まったような信心。だからボウフラぐらいしかわかんのだ。ボウフラぐらいの信心、おかげで終わってしまうのだ。大海のような信心をせよ。大海のような信心をすれば、それこそ鯨が住もうがと。大きな事を思ったり願ったりするだけで、大海のような信心と言う事ではないという証拠に、鯨の住むようなおかげを頂いていない。
 ですから天地日月の心になること肝要と仰る。いわゆる天の心であり、地の心であると。それを愈々人間が人間らしゅう生きる生き方とは、野放図な生き方ということではない。飲みたいから飲む、食べたいから食べる、と言った様なものではない。人間がいわゆる日月のような心で生きる生き方を、私は人間らしい生き方だと思うのです。日月の心とは、日月のように変わりないもの。いうならそれを教祖は、実意丁寧神信心と仰せられている。実意丁寧神信心をさせて頂きながらの人間が人間らしゅうである。
 そういう生き方にならせて頂こうと思えば、誰でも出来る。あれを食してはならん。これを飲んではならんと言う様な難しい戒律的なものではなくて、人間が人間らしく一歩一歩、これが日の心であろう、これが月の心であろうと、いわゆる実意を込めての生活が人間が人間らしゅう生きる生き方だと思うですね。しかも天の心地の心である。そういう大きな信心、大海のような信心とは天地の心だと私は思うです。
 そこで合楽では誰もが鯨の住むようなおかげの頂ける生き方を合楽理念に基づいて日々頂いておるのが合楽の御理解だと思うのです。果たして天の心、地の心と言ったものを生きることの根源的なものにしての生き方が出来ておるだろうか。難しい事ではない。「信心はなくても、おかげはやってある」といわゆる神愛である。一切がおかげである。それをおかげと分からない。おかげと知らない。
 信心はなくてもおかげはやってある。いわゆる信心はあっても、ただ自分の願いが成就する事だけが、おかげのように思うて、神様が下さっているおかげをおかげと思いきらんと言った様な事ではおかげにならん。信心のないものと同じ事。頼んだ成就したと言うこだけがおかげではない。信心はなくても生きとし生けるものに対する天地の大恩恵を、みんなが受けておる。その大恩恵の中には、ただ自分の都合の良い事だけではない。降ることも照ることも御恩恵でありお恵みである。
 それをおかげと分かると言う事が神愛が分かり、神愛を悟らせてもらうと言う事になる。難しいですかね。論理の上にまず、そういうふうに分からなければいけません。信心がなくても、だから信心があっても、おかげをおかげと分からんでおる人がどのくらいあるか分からん所を合楽理念は一切神愛と言った様な表現で説く。そして神愛であろうがと、いろんな事がない事がない、いろんな事がある。
 痛い事もあれば歯がゆい残念と言う事もあるけれども、よくよく考えよったら神愛であったと分からしてもろうて体験に体験を積んでいって、本当にあの事は苦しい事だ、情けない事だと思うておったけれども、あれがおかげであったと言う事が、段々分かる様になってくる。「天地は流行る事もなければ終わりもない」と、確かに天地は流行ることもなければ終わりもないでしょう。
 けれども私どもが住んでおる地上、いわゆるこの地球上に住んでおる人間の住んでおるここが天地と共に極まりなしと言う事ではないと言う事。天地は極まりないけれども地球はそうではない。まあそれは学問的にも、又は大予言者と言われる予言の中から聞いてもです、地球はいつ無くなってしまうやら分からんような風説すらあるくらいですから。だからどういう訳で人間の住んでおる地球が、その私が頂いておる「寒天危地」です。もうほんとに厳しい、言うならば天地の法則に基づいてのことであるから。
 その「寒天危地」を「喜天歓地」と、喜びの天歓びの地といついつまでも地球の繁栄、人間の住んでおる世界の繁栄ということを願わしてもらう。なぜそう言う事になるかと言うと、人間が天地日月の心を心とする生き方をしないから、そう言う事になりかねないことになる。天地日月の心になる事というのは、信心があっても、なかってもそれを心とする表現が「おかげは和賀心にあり」という天地書附である。
 又はここで言われる十三日会の精神である。人間どこにお粗末御無礼があるや分からんけれども、そこに天地に対するお詫びの姿勢をもって詫びていけば、「詫びれば許してやりたいのが親心」と仰るから、人間総氏子がそういう生き方、間違った生き方を詫びて、これからは天地日月の心になる事を、一辺にはなれなくても精進していこうというのが天地日月の心である。
 しかもそれが大海のような四神様の仰せられる「大海のような信心をすれば鯨が住もうが」と仰せられるようなおかげを頂く。思うてはおるけれども、手立てが分からなかった。どういう信心をさせてもらえば大海のような信心かと言う事が分からなかったけれども、ただ教祖は説いておられる、天地日月の心というふうに説いておられるけれども、なら天地日月の心とはどういう信心させて貰ったらよいかと、聞けば聞くほど分かれば分かるほど、成程天地の心と言う事の素晴らしさ。
 それを合楽では「成り行きを尊び生き方」「土のような信心」「限りない美しい心」天の心のように与えて与えて、しかも無条件で与えられる、止むに止まれぬ心である。そういう心を様々な問題の中から問題を通して、その心にならせて頂く事である。昨日久しぶりで福岡から参って来た方がある。3ヶ月間病院に入院しておかげを頂いて退院のおかげを頂いたというて参って来た。
 それで大変おかげを頂いて、これからはまた神様一本で健康のおかげを頂きたいという意味のことを言われますから、病院を帰る時にお医者がどげん言われましたかと。さあ病院を帰るからというて、また乱れた生活ではいけない。食事のことから日々の生活の上にも、こういう心がけでいかなればだめですよと、それはもう充分言われましたばってん、もうこれからは神様一本でいきますと。
 だから私が申しました。昨日は丁度日曜でしたから、浅野先生が見えて頂いて体の健康状態から、色々とご注意も頂いた。そして「先生は体の脂を取り過ぎている様な感じですから、今日からお風呂に入る時に石鹸をお使いにならぬように」と言う事であった。だから昨日から私はもう石鹸を、顔と頭だけ石鹸で洗うて、体は石鹸は使わずに致しました。これからこれからも石鹸を使うまいと思うと言う事を、その方に話した。
 だから医者の言われる事を神様の言われる事と思うて、これからは神様一本でいくという、例えば食べちゃならんとでも、神様にお願いして食べればいいといったような考え方は捨てなきゃいけません。医者の言うた事を神様の仰せられた事と思うて、それを守らなければいけないよ。私も今日からお風呂に入る時に石鹸を使わない事を」決めたが、それが信心なんだよと言うて話した。そしたらそれが非情に、金光様の信心ちゃ有り難いというようなものを感じられたようないわば感じでした。
 これから神様一本ちゃなら酒好きな者が酒を飲む。甘かもん好きな者が甘かものいっぱい食べるようでなくて、医者から「甘いものはいかんですよ。辛いものはいかんですよ。こういう生き方にならなきゃ」と言われたなら、それを守る事が信心なんだよ、ね。そういう生き方を私は実意丁寧、いわゆる日月の心だと思うですね。医者はそげん言うけども、私はこうと言った様なもんではいけん。
 医者にかからんで、薬を頂かずに、ただ信心一本でいくという場合は別です。医者にかかった以上は医者の言うことを実行すると言う事が、実意丁寧神信心です。そういう生き方を愈々身に付けていきながら、それなら天の心とは地の心とはという生き方になってくる時に、初めて大海のような信心と言う事が言えるのではなかろうか。偉大であるという、天地ほど大きいものはありません。
 天地と相まって地球上の人間が愈々繁盛のおかげを頂いていくためには、どうしても天地の心を分からしてもらい、天地の心を心とする生き方を身に付けない限り、これは天地は永久のものであっても地球はその限りにあらずと言う事。地球はいつ地球の破滅と言った表現がされるが、ほんとにいつ破滅するか分からん。それは天地の心に反した生き方をする所から、そう言う事になってくるのです。
 そこに気付かれたのが教祖金光大神である。世の中が繁盛する繁盛するというけれども、あれは世の中がめげておるのじゃと、教祖はそう仰っておられます。そのめげていく、そのめげ方というものが、予言者が言っておることやら、また事実地球上に色々な変化が起こっておると言う事も、矢張りその一つの実証なのである。そこに真の信心を頂く者が気付かせて頂いて、詫びる所を詫びて願う所を願って。
 その願う心も天地の心をもって天の心地の心をもって、又は日月の心をもって、人間が人間らしゅう実意をもっての生き方を身に付けていくところから、おかげにもなるだろう、また大きなおかげにもなるだろう。ただ目先の自分の都合の良い事ばかり願う信心こそ。竹の筒に水が溜まったような信心じゃないだろうか。おかげというてもボウフラぐらいなものではなかろうか。
 大海には鯨が住むと言われる、鯨の住むようなおかげを頂くためにも、愈々大きな信心をさせてもらわなければならん。大きいといや天地ほど大きいものはない。確実というたら日月の心ほど確実なものはない。そういう信心を身に付けていく稽古が、合楽通いの焦点でなければならない。そういう心で願っていく。それは願う事は、今言う様に体の事から痛い痒いの事から。
 一時が万事人事百般牛馬の事に至るまで願うていけれる。だからその願いがその願いだけであってじゃなく、そういう大きな心で願っていく。天の心地の心を愈々身に付けて、日月の心の実意丁寧な生き方をもって信心していくと言う事であると思います。私は今日はしきりに、その四神様の「大海には鯨が住もうが」と仰せられる、その大海の信心とはそれを何十年間、私どもは求めてきたか分からない。
 だれでも鯨の住むようなおかげを頂きたい。それを合楽ではだれでも大海のような信心が出来る、言うならば手立てを説いておると言う事から思うてもです、今日の御理解をもう一遍思うてみて、愈々成程誰でも大きなおかげは頂きたいのですから、そんなら自分の心が竹の筒に水が溜まったような信心しか出来ていないならば、愈々天の心地の心を身に付けていく大きな信心にならせて頂かなければならんと言う事になりますよね。
   どうぞ。